先祖から受け継いだワインへの熱い情熱と企業家精神

エルベ・ケルランは、リブルヌのプリオラ河岸にあるペラ・シェーズ(Peyrat-Chèze)家の醸造所で遊んだ幼少期のことを、今でも懐 かしく思い出します。彼の母方の曾祖父アントワーヌ・シェーズは、ネゴシアンであると同時に、100haほどのブドウ畑といくつかの名高い畑を所有するオーナーでした。コレーズ出身のムエックス家(Moueix)、ボリー家(Borie)、マヌー家(Manoux)といった仲間の同業者も皆そうであったように、アントワーヌ・シェーズも企業家精神とハングリー精神 に満ちていました。
エルベ・ケルランの父、シャルル・ケルランはブルターニュの出身で、公共土木事業に携わる優秀なエンジニアでした。また、多くのブルターニュ人がそうであるように、仕事で常に世界中を駆け巡る「冒険家」でもありました。父は息子に、海を越えて新しい世界を発見する醍醐味を教え、世界を理解し、変革していく者には科学的知見が不可欠であることも教えました。

カナダのケベックから・・・

エルベ・ケルランの父と母はシャトー・ラグロラの収穫時期のブドウ畑で出会いました。その後二人は結婚し、転勤でモロッコに移住 します。そこで1953年に彼が生まれたのです。1957年、父はリブルヌに戻り、妻の実家であるペラ・シェーズ社のネゴシアンの家業を引き継ぎます。しかし、エルベ・ケルランが11才の時、母親が亡くなり、1976年には母の実家の家業は売却されます。彼にとっても家族にとっても辛い時期が続きました。
しかし、世界文化開闢の時代。若きエルベにとって、意気消沈している暇はなく、もっと自分の目で世界をみたいという好奇心に駆られ、彼はバカロレア資格を取得後、英語とコミュニケーション論を学び、1977年、カナダのケベック州へ移住します。そこで彼は、夏は映画のフィルム編集の仕事をし、冬はワインを売る仕事をして、10年以上を過ごしました。フランスから遠く離れた地で暮らしていても、家業であるワインとの関わりが切れることはありませんでした。

・・・ブルゴーニュへ

アジア太平洋地域が20世紀末には世界経済の中心の一つになることをいち早く察知したエルベ・ケルランは、1988年、カナダのバンク ーバーへ移住し、ワインビジネスに専念するようになります。最初は、バンクーバーでワインの営業マンとして職を得て、1991年よりフランスに帰国し、ブルゴーニュのあるメゾンで輸出部長を勤めま した。
彼は、ブルゴーニュ地方という素晴らしい産地にすぐに魅了されました。当時のブルゴーニュワインのアジアへの輸出量は僅かなものでしたので、彼は1993年に自らディレクト・ドメーヌ・ディストリ ビューション(DDD :Direct Domaines Distribution)という会社を立ち上げ、有名ドメーヌをはじめとするブルゴーニュワインをアジア向けに輸出しました。小さな組織ではありますが、今なお、このDDDは、アジアにおけるブルゴーニュワインの流通をリードしています。

エルベ・ケルランがDDDを通してアジアに輸出したワインの生産者達は、大変豊かな才能の持ち主ばかりでした。彼らのワイン造りから大いにインスピレーションを受けて、エルベ・ケルランは自らもブドウ栽培とワイン造りを始める決意を固めます。しかし、彼のワイン造りへの挑戦は困難を極めました。
ブルゴーニュには身内も頼れる人もなく、またブルゴーニュの不動産が法外に高いからでした。しかし、辛抱強い性格のエルベ・ケルランは、「そのぐらいの 困難でくじけるものか」と、長い年月をかけて少しずつ「ヴィニュ ロン(ブドウ栽培とワイン醸造を行う者)兼ネゴシアン」というブルゴーニュによくある兼業スタイルの事業を展開していきます。
1993年にDDDを設立してから20年以上をかけて、煉瓦ブロックを一つずつ積み上げていくように、家業であったワイン造りへと回帰 していきます。
1998年にはラボルド城を購入、翌1999年にはワインの熟成を開始、2000年にはブドウの苗を植え、2005年からはワインの醸造も始めました。そして2016年には新たな設備が整い、新しいワイナリーとして再出発しました。エルベ・ケルランの「冒険」はこれからもまだ まだ続いていきます。